自然の素材、人の努力。
素朴な技術が
今なお輝き続ける理由。
手に取れば感じる歴史の織文。
古代エジプトにおいて船の「帆」として使われるようになったのが始まりとされる帆布。日本では織田信長の帆船に用いられたのが最初だと言われています。
綿糸を何本も撚り合わせた丈夫な糸から織り上げる1平方メートルあたり8オンス以上の平織りの地厚い織物。
非常に丈夫でへたりにくく、通気性に優れ、使い込むほどに味が出てくる帆布。
その発祥は、古代エジプトまで遡り、船の帆として使われた亜麻帆布が起源と言われています。
耐久性に優れた布は、ミイラの巻き布にも使われていました。
日本では、江戸時代末期に伝わり、和泉、三河、播州、備前、備後地方で盛んだった帆木綿を、船頭であった工楽松右衛門が速い船をつくるため、良い帆の発明に没頭し、綿帆布へと発展。
それは江戸と大阪の航路をさらに発展させる発明品となり、たちまち全国へと広まっていきました。
綿花の栽培が盛んだった岡山県倉敷市児島地区。撚糸技術を活かして日本一の綿帆布の生産地として成長を遂げ、現在も全国約7割を生産しています。
児島湾を中心として、干拓地での塩田や綿づくりが盛んに行われていた江戸時代。
低い山並みが地域を縦横に走り耕地が貧しかった児島では、農作業の合間を縫って、綿を加工して紐や布地を作るようになっていきます。
こうして児島地区の綿織物はこの地の基幹産業となり、海の恵み「いかなご」「塩」の白、そして「綿」の白を合わせて「児島三白」と呼ばれ、その名を全国に知られるようになります。
播州高砂工楽松右衛門により、近代的な太糸の木綿を使った、 厚地広幅の丈夫な帆布を織り上げる織機が発明される。 瞬く間に全国に普及し、以来「松右衛門帆」と呼ばれ、長い間日本の水運を支える。
藍染に用いられる藍玉を京都へ売り出すため、藍玉売りさばきの許可を得る。 藍の本場、阿波国に負けないよう大量の藍玉が作られ、 染め物を業とする紺屋が誕生し、染めに出す糸や布も盛んに造られた。
児島地区で作られた布地や帯地は、雲斉・小倉織・真田紐の魅力が評判となり、 瑜伽大権現門前町の土産物として全国からの参詣人に買われて行った。 農業の余暇であった綿作りは、片手間な仕事ではなくなり、急激な発展を遂げていった。
児島郡内の小倉織生産が飛躍的に伸びる一方、品質や販売価格が無統制で、 ばらばらだったために、中には粗悪な品も交じっていた。 赤穂城主でもあった池田長政は、品質の管理を取締り、抜け売りや小売りを禁止。 そして権威をもった規格品をつくり、これには「池田家御産物」と銘を打った。
薩摩藩がイギリスより紡機を輸入したことから、 日本最初の機械紡績所として鹿児島紡績所の操業が開始される
小倉織の布地や帯地が徐々に衰退を始め、児島の繊維業者たちは、袴地や前掛地の製造に転じ、明治中期には足袋の製造が盛んになる。
企業家たちは中国、韓国むけの輸出により大飛躍をとげ、韓国むけ腰帯、中国向けの紐やゲートルなど、多くの織物製品群が輸出され、繊維産業に大きな成長をもたらした。
当初は原料の原糸は手紡ぎであり、染料も藍を中心とした植物染料であったが、染料は化学染料の時代へ、糸は洋糸の紡績糸を使用するようになる。
下村紡績所が渾大坊兄弟により設立。 まだ日本ではわずかしか導入されていなかった紡績機に着目し、 岡山県下初の紡績所として創業した。
児島地区の郷内にて、現在の倉敷帆布の発展に大きく寄与した 厚物織り工場「武鑓織布工場」が武鑓石五郎と梅により創業した。
大工の息子 豊田佐吉により、内国勧業博覧会で見た外国製織機を基に、 独力で「豊田式木製人力織機」を発明する。 その後も研究と改良を続けられ、1897年には「豊田式木製動力織機」が誕生。 豊田(現トヨタ自動車)の自動織機は現代においても世界に知られている。
明治末期の児島の繊維業は、帯子と足袋の生産が中心だったが、 橋本屋の松三家が足袋縫製に初めて動力ミシンを導入したことをきっかけに、 大正初頭へ向けて児島足袋の全盛期を迎えることになる。 真田紐、ランプの芯などの伝統的細巾織物は、中国向け帯子の不振から停滞。 その中で『光輝畳縁』と呼ばれる畳縁の生産にシフトしていった。
織物の大陸向け輸出が停滞し、かつ生活様式の変化により足袋の生産が衰退する中、繊維業者たちは縫製の技術を利用し、学生服、作業服の製造へと転換。
関連する多くの業種が集積し、紡績業、撚糸業、染色業、整理業、ミシン業者からボタン製造業などが栄えていく。
児島半島の中央に位置する由加山から四方に流れる水は、機業の原動力として活用され、早くから水車動力が進んでいったが、一方で撚糸機が登場するなど機械化が進み、次第に蒸気、石油機関利用の動力が登場するようになった。
まだまだ電力は頼りにならず、水車が大きな原動力だった。 「武鑓織布株式会社」の武鑓卓衛は、水車動力の導入によって、 児島の郷内地区での繊維産業に大きな発展をもたらした。
当時岡山県は全国一の足袋を誇ったが、時代とともに衰退に向かい始めた。 児島商人は、いち早く被服縫製業や織物工業に転換し、 和装から洋装へと変化した流れを見極め、学生服の研究を始めた。
紡績の機械を参考に工夫を重ね、 鉄製の歯車式でほぼ現在の撚糸機に近いものが出来上がる。 この機械の出現により、本格的に撚糸業に取り組む家も増えていった。
重工業系の企業活動が活発になるに従い、合成繊維の出現が学生服の生産を急拡大させた。
東京オリンピックの前年には、1000万着を超える史上最高の生産を達成。
また、光輝畳縁も全国一の生産を誇るようになったこの頃、全国からの集団就職の女子が児島地区の寄宿舎にあふれ、街は活気にあふれた。
しかし、この頃をピークに学生服の需要が減少し、児島の繊維業は再び岐路に立たされることになった。
老舗の紡績業、織物業が相次いで店を閉じ、新しいものが望まれる時代となった。
消費の低迷、アジアからの輸入品の攻勢、素材の多様化、好みの変化などにより、服飾に関する考え方が大きく変化して、量から質の時代へと変わっていった。
学童の服装は、昭和5年頃は着物と服が半々だったが、 昭和10年になるとほとんどが学童服となった。 これを受けて、児島縫製業の主流は学童服の生産と推移していった。
児島の郷内地区の工場は、ほとんどが厚地の織物だけを専門に手掛けており、 「武鑓織布株式会社」の創立者 武鑓石五郎と梅の三男進衛により、 織布の「丸進工業株式会社」が創業した。
日華事変により衣料統制時代となり、児島の縫製工場は陸海軍の管理工場に指定され、 軍隊の被服を縫製した。
繊維の統制が撤廃されると、急速に復活発展を遂げた。 昭和31年には全国の70%を生産する学生服王国と言われるまでに発展。 これは、地域の各企業を結びつけ、綿を中心とする生産の一貫体制「中小紡績→撚糸→織布→染色→縫製」が出来ていたためである。
学生服製造に衰退の陰が見え始める中、アメリカの影響を受けたジーパンメーカー 「ビッグジョン」が昭和35年に誕生した。 生地も染色も新しい素材が加わり、爆発的ブームが続いた。
児島は、栄枯盛衰を繰り返しながらも、150年を超えるチャレンジで、 繊維産業にかかわるあらゆる分野の業種をこの地に育て上げた。
綿糸から、織物、染色、縫製へと発展してきた業態のほとんどが現在残っており、 細巾から、広巾へ、足袋から学生服へ、
日本人の服装の変化と、アパレルの歴史の流れをうかがうことができる。
この地には多くのノウハウが蓄積され、他に見られない繊維業の集積を示している。
丸進工業、タケヤリ、タケヤリ帆布協同組合の三社が倉敷帆布の販売会社「株式会社バイストン」を設立(現在はタケヤリと丸進工業の二社による)。 倉敷の児島地区の帆布産業の発展に大きく寄与した武鑓石五郎と梅の名をとって命名。 数々の倉敷帆布ブランドを世に送り出している。
強靭さと通気性を兼ね備える帆布は従来、機能品製品の素材として重用されてきましたが、現在ではその風合いなどがアパレル製品としても広く注目を集め、伝統と革新をあわせ持った素材として進化を続けています。
撚り合わせ、織ることで、一本の細い糸が丈夫な帆布へと姿を変える。その過程は、本物を作り続けてきた『倉敷帆布』の実直な姿勢そのものです。
『倉敷帆布』はいつも考えています。
「いまの時代に暮らす人々のために何ができるのか」
そんな細い糸を紡ぐような想いの積み重ねが、伝統となり、文化をつくってきました。その姿勢や存在が、いま改めて見直されています。
ものをつくる真摯な態度や心地よいものと過ごす毎日の時間の素晴らしさを、多くの人が大切に考えるようになっています。
もちろん、人々の暮らしやスタイルは、これからも変化していくことでしょう。
だから、大切なのは変わること。
モノづくりの核心は頑なに守りながら、人々の生活にしっかり寄り添う存在として、変わり続けること。
『倉敷帆布』は、これからも改善・改良を重ね、技術や姿勢を未来へと伝え続けていきます。
いつまでも人々に愛され続ける類まれなる本物のテキスタイルとして。